海洋散骨ご報告|熊本県 天草灘

天草灘

熊本県 天草灘での海洋散骨

天草四郎で有名な島、「天草」
天草四郎とは・・・・
天草四郎は益田甚兵衛の長男として生まれ、本名は益田四郎と言います。 上津浦の南蛮寺にいたママコス神父が、「今から25年後、東西の雲が赤く焼け、5国中が鳴動するとき、一人の神童が現れて、人々を救うであろう」と予言を残して去ったという話がありました。人々の不安の中で、四郎こそが予言にある天の使者に違いないという噂が広まり、天草だけでなく島原一帯にも広まっていきました。そして、ついには一揆勢の総大将に担ぎ出されました。総大将とは言うもののシンボル的な存在であり、実際に指揮を執ったのは、父甚兵衛をはじめとする側近たちであったと言われています。原城に籠もった四郎は、歯にお歯黒をし、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着た呪術的な格好で、洗礼を授けたり、説教を行っていたと記録されています。

時は1612年、徳川秀忠の時代。
キリスト教の禁教令がしかれました。当時天草は、関ヶ原の戦いに敗れたキリシタン大名・小西行長に代わり、唐津領主・寺沢広高が治めていましたが、人々は実際の石高の2倍にあたる重い年貢に苦しめられていました。さらに、追い討ちをかけるかのような大凶作にみまわれ、天草の人々は、信仰の禁止と厳しい年貢の取り立てにますます追いつめられていきました。
そして1637年、ママコス神父の予言通り、天童・天草四郎が現れました。 口之津(長崎県口之津町)で年貢が納められなかった家の妊婦が、寒中の川にさらされ殺される残虐な事件を機に、民衆の怒りは爆発。四郎を総大将にまず島原で火の粉が上がり、続いて大矢野町へ。
一揆群は大島子(天草市)の戦い、町山口川(天草市)の戦いで勝利を収め、勢いに乗って富岡城(苓北町)を攻めますが、難攻不落、富岡城陥落をあきらめ、次は海を渡って原城(長崎県島原市)へ向かったものの、3ヶ月間の籠城の末、大勢の幕府軍に敗れてしまいました。クロスのもと、自由と平和の国”パライゾ”を夢見ながら・・・。

天草四郎観光協会参照

故人様は天草に良く訪れており、死後は近親者だけの家族葬で、荼毘に付したあとは天草沖に散骨して欲しいと仰っておりました。
大好きだったコーラと、赤・白・青のバラを少量、一緒に撒いて欲しいとの事で、希望に添えるよう準備致しました。
夕暮れに差し掛かる時間に天草へ向け出港、少人数のチャーター散骨で執り行いました。

熊本県 天草灘海洋散骨写真(写真をクリックすると、大きく表示されます。)

故人様が生前に希望した「コーラと赤・白・青色のバラ」をご用意
故人様が生前に希望した「コーラと赤・白・青色のバラ」をご用意
天草諸島の沖合へ
天草諸島の沖合へ
天草を眺めながら、遠藤周作氏の小説「沈黙」を思い出す
天草を眺めながら、遠藤周作氏の小説「沈黙」を思い出す
ご家族の手で遺骨を海に還す
ご家族の手で遺骨を海に還す
澄んだ天草沖
澄んだ天草沖
ご遺骨はゆっくり溶けていく
ご遺骨はゆっくり溶けていく
ご遺骨は希望してた天草沖に
ご遺骨は希望してた天草沖に
大好きだったコーラ
大好きだったコーラ
希望していた少量のバラも一緒に
希望していた少量のバラも一緒に
穏やかだった天草沖
穏やかだった天草沖
漂うバラの花
漂うバラの花
遺骨を追うようにバラの花々
遺骨を追うようにバラの花々
ゆっくり沖合へ流れていく
ゆっくり沖合へ流れていく
夕陽に照らされる天草諸島
夕陽に照らされる天草諸島
綺麗な島々
綺麗な島々
鹿児島側から見る、天草諸島
鹿児島側から見る、天草諸島